From Southern

サザンカンパニーからの月イチコラムです。
書いているのはサザンカンパニーのスタッフ、写真やイラストは、サザンカンパニーと関わりのある方に依頼しています。

第7回「神楽坂の遺伝子を引き継ぐもの」


東京には、花街(かがい)が六つある。新橋、赤坂、芳町、神楽坂、浅草、向島。少し離れているが、八王子も入れると正確には、七花街となる。昨年の暮れから、各花街へ足繁く通った。見番や料亭、芸者さんや女将さんを取材、または撮影すること、40回を超えた。すでに花柳界が消滅してしまった柳橋界隈も、今はもう幻となった料亭と隅田川の景色を求めて探し歩いた。ただ神楽坂だけは、私の地元であるだけに、あえて探訪のようなことはしなかった。日常的にふれている景色なので、十分過ぎるほど知っていると思ったからだ。

しかし、近くに居ただけで、視えていなかった。他の花街同様、取材者の視点で見て、初めて視えるものも多々あった。昭和12年の全盛期の神楽坂には、料亭や待合い合わせて約150軒があり、600人近い芸者衆が働いていた。お座敷では、さまざまな愉しみもあったであろうが、日々芸を磨き、芸に秀でた者がすなわち“芸者”であるという視点でとらえてみると、芸と美のプレゼンテーションが日々繰り広げられてののではないかと想像される。さらに坂や路地は視覚的にも変化に富んでおり、高低差のある視界や、袖が擦れ違うほどの径がクランク状に入り組んだ場所は、それ自体が劇的空間である。芸と美を披露する舞台が夕暮れから点滅し、その舞台に続く路地には、贅を尽くした衣装の芸者や楽器などを抱えた箱屋が忙しく行き交う。そうした中で磨かれた美意識や暮らしのスタイルが、まちの形成に少なからず影響をおよぼしてきたのはまちがいないと思う。そういう思いで歩いてみると、神楽坂こそ実に想像力を刺激されるまちである。(そんな思いを抱きながら取材をつづけ、編集者の立場でつくった本が、一冊となった。冒頭の写真のである。神楽坂に興味のある方、花柳界に興味のある方は、ぜひ書店でみていただければと思う。7月の初旬から全国の書店で販売している)

花柳界がまちの一つの文化的遺伝子であるとするなら、もう一つ大切な遺伝子を、神楽坂は抱えていると思う。神楽坂の六丁目の表通りからほんの50メートルほど奥に入った場所にある『芸術座』である。自分の事務所と目と鼻の先にあるのでとても気になる場所である。大正時代の初期に島村抱月と松井須磨子らが活躍した『芸術座』が、当時の人々の心をどんなにつかんだものなのか。『人形の家』のノラや、『復活』のカチューシャが大流行し、当時の女性の新しい生き方に与えた影響は計り知れないだろう。その総本山である『芸術座』が神楽坂6丁目にあったのだ。新劇の拠点として活気づいていた神楽坂界隈は、またどんな文士や芸人、役者らが赤ちょうちんや洋食屋で、口角泡を飛ばして芸術の夢を語っていたのか。このDNAも、またまちの細胞の奥に眠っている。花街、つまり芸と美の研鑽を積む芸者衆と、『芸術座』の新しい演劇の夢を抱いて暮らしていた人たちが同居したまち神楽坂。この二つの文化的遺伝子を新しい時代にあった形で引き継ぐものは、いつかかならず現れるものと思っている。あるいは、すでに現れているのかもしれない。神楽坂界隈の、矢来町、横寺町、箪笥町、岩戸町、どこのまちへ行けば、その遺伝子を引き継ぐものに会えるのだろうか。(長岡)